■ 岐路に立つ日本にふさわしい小説を
村上氏は、ある種の覚悟を抱いて発言を続けているのだろうか。ブランドナー氏が、日本で最も成功した作家として特別な責任を感じているのかと水を向けると、村上氏はこう答えた。
「自分の仕事は書くこと。だが、外国に出て語ることも僕の責任だと思っている。そういうところで発言できる日本人は限られている。だから、きちんと意見を言いたい」
村上氏が早稲田大学で過ごした時代は、全共闘の真っ只中だった。多くの全共闘世代と同じく、当時が原風景として残っているという。
――「私たちは18歳、19歳、あるいは20歳で、非常に理想主義的でした。私も世界が段々とよくなるだろうと、私たちはそう、それに向かって頑張っていたわけですが、そう信じていました。当時は非常にナイーブでした。そして多くのことが起き、私はもう信じなくなったのです。でも、この理想主義は感傷的な思い出として残っています。いまのほとんどの若者は、そんな理想主義をもう持っていないと思います。少なくとも、大規模な運動はありません。私の世代はこの理想主義がかつて存在したことを重視しています。それ以降、すでに40年が経過しましたが、そのような時がまた来ないのだろうかと自問します。それが成功するかどうか?分かりません」(Reportage Japanから引用)
村上氏が3年ぶりの長編小説を書き始めたのは、このインタビューから3ヵ月後のことだ。このときはまだ、どういうものを描くのか決めていなかった。村上氏はこう話している。
「原子力発電所の事故そのものを描くよりは、もっと内的なもの、心理的なものを描くほうが大事なんじゃないかという気はしています。日本人が分かれ道にいる大切なときであり、それにふさわしい小説を書かなくてはいけないでしょう」
そして、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文芸春秋)が出来た。過去に心の傷を負い、死ぬことだけを考えながら生きていたことのある主人公が、自分を取り戻すために巡礼の旅に出る物語だ。村上氏はつくるの生き方を通じて、日本人の置かれているいまを表現しているようにも見える。