70年代に米国中を騒然とさせたフォード・ピント事件は、企業倫理とはどうあるべきかを社会に問いかけた。その事件を参考にしながら、決定的な欠陥のある日本の原発はいますぐリコールすべきと訴えるのが中部大学の武田邦彦教授だ。その主張を以下に紹介する。
◇本来なら尊敬されるべき電力会社、犯罪へ踏み込むか?・・・補償金の書類配り
東電が原発被災者に補償金支払いの元となる書類を配布し始めたという報道がありました。近代国家になってから、私たちはさまざまな経験を通じて、「正義、文化、快適、健康」などを守ってきました。東電とその他の日本の電力会社の行為は、私たちが長い間の犠牲を払って築いてきた根源を破壊する行為にも感じられます。本論に入る前に、1970年代に起こった「フォード・ピント事件」について触れておきたいと思います。
1960年代になり、日本の自動車メーカーが小型車を次々と開発する中、アメリカのビッグ3の一つフォードが小型車ピントを販売し始めました。それまでのアメリカ車と言えば、豪華絢爛で大型、ガソリンをまき散らしながら走るというものでしたが、ほぼ初めて本格的な小型車に挑戦したのです。
ところが、発売して暫くすると「追突されると火災になる」ということがわかりました。車の構造上の欠陥で、ガソリンタンクをボルトが突き破るのが原因でしたが、それがわかってフォード社内では対策会議が開かれます。その席上で議論されたことは、次のとおりでした。
1. もしリコールして車を回収し、改善すると、販売台数は1250万台で、改修に要する費用は1台あたり11ドルだから、合計約100億円になる。
2. もしリコールしなければ、死傷者の出る火災が180件起こると想定される。死んだ人たちに20万ドル払い、負傷した場合の損害賠償に6.7万ドル、車両炎上2100台×車両損失700ドルとすると、合計約40億円になる。
3. 車を直せば100億円、そのままにしておけば死者はでるが40億円ですむ。それなら40億円を選択しよう。
この事件は後の「フォード・ピント事件」と呼ばれるようになり、「社会的悪」ということになりました。もしこのような判断が許されれば、「死者や健康障害が出ることがわかっていても、それを補償すれば良い」ということになり、社会は大混乱に陥いります。
火災が起こるとわかっている欠陥ストーブを売る、不完全燃焼で数名の犠牲者がでることがわかっていてガス湯沸かし器を売る、子供が病気になることがわかっているのに農薬入り食材を売る・・・などが起こるからです。
あにはからんや、ピントの事故は続き、フォードは社会的な非難を浴びて、結局、車を回収することになりました。考えてみれば、ピントを買ってくれたお客さんはフォードのファンでもあり、顧客でもあります。その人たちが焼け死ぬことを予想して、「補償金を払えば良いだろう」などということはもう通用しない社会になったのです。
それから40年。 同じことが日本の電力会社に起ころうとしています。電力会社と言えば地域独占で大会社。そこで働いている幹部は一流大学をでて本来なら社会的に尊敬される人のはずです。でも、原発事故以来の東大教授を見て貰えばわかりますが、人間は「知識がつけばそれを悪いことに使う」という特徴を持っています。
東京電力が福島原発で被災した人に補償するための書類を配り始めました。まだ病気になった人はいませんが社会的に大きな打撃を与えたことは確かです。それは、これまで震度6の地震で日本の7つの原発が破壊し、そのうち3つが全電源を喪失、1つ(福島第一)が爆発しました。つまり、日本の原発は決定的な欠陥があり「フォード・ピント2世」なのです。
今、 動いている原発は「やがて爆発すると予想される製品」ですし、それを動かすということは、「補償さえすれば、被害を受けても良い」という前時代的な考えに もとづいているのです。日本の原発は一度、リコールし、設計を変更して改善し、そして社会の了解を受けて再稼働するべきなのは当然でしょう。
北海道の泊原発の再開では、「原発は必要だから安全である」という逆転の論理が用いられました。よく北海道の人はなっとくしたものです。「ニューヨークに航空機で行く必要があるから、墜落しない」というのと同じで、「リコールするとお金がかかるから、このまま販売する」という「悪魔のビジネス」だから、日本ではゼッタイにしてはいけないと思います。
(http://takedanet.com/から本人の許可を得て全文を引用)
資本主義の先端を行く米国企業の経営者にまず求められるのは利潤追求だ。誰もが知る大手コンピューターメーカーのトップは、ライバル企業から訴えられそうな商品開発でも、あらかじめ敗訴時の賠償金を想定して、予想される売上がそれ以上ならゴーサインを出すと聞いたことがある。武田氏のいう「社会的悪」が、「利潤」の上に通用する土壌がまだ残っているのだ。ただ、それが人命に関わることであれば、より厳しい司法判断や社会的制裁が待っている。
日本では73年の伊方原発訴訟を皮切りに各地で原発訴訟が行われているが、最高裁で原告が勝訴した例は、まだない。(形山 昌由)