6月11日、医師として、研究者として、水俣病に生涯をかけてとりくまれた原田正純先生が亡くなられた。77歳だった。
1934年鹿児島県生まれ。熊本大学医学部を卒業。61年に初の水俣現地調査に参加してから亡くなられるまで、水俣病の被害者に寄り添い続けた。
胃がん、脳梗塞、食道がんにつづき、昨年からは血液のがんと闘っていた。
今年4月末に入院後、5月初旬にはご自身の意志で退院され、抗がん治療を行わず、定期的な輸血だけで自宅療養をされていた。
見舞客を笑顔で迎え、亡くなる2週間には、原田先生が胎児性水俣病患者に深くかかわるきかっけとなった人物・金子スミ子さん(81)との面会も実現し、感謝の気持ちを伝えたそうだ。スミ子さんとの出会いは60年代の水俣にさかのぼる。
ある日、原田先生は、縁側で遊んでいる兄弟の症状が全く同じことにきづき、母親のスミ子さんに、二人とも水俣病なのかと聞いた。すると「お兄ちゃんは水俣病だけど、弟は違う」という。
どうしてかたずねると、「先生たちがそういっているじゃないですか」といわれた。兄のほうは魚を食べて発病したから水俣病だが、弟のほうは生まれたときから病状があったから水俣病ではないという。
母親は続けて、「先生たちは魚を食べないと水俣病にならないといっているけど、私はそう思っていない」というのだ。夫も長男も発病し、同じものを食べていた自分がうんだ下の子は、うまれながらに障害をもっている。自分に症状がみられないのは、体内の水銀がおなかの子どもにいったのではないかと。
当時の医学では、「胎盤は毒物をとおさない」が定説だったが、原田先生はスミ子さんの言葉を聞き流さなかった。このことは後に、国に胎児性水俣病患者を認めさせることにつながった。