夜明けのコンサート

二〇××年晩冬、十年以上も続いたあの国の忌まわしい軍事政権が内部抗争と国際社会の圧力の果てにあっけなく崩壊した。病室のテレビがそう伝えている。無辜の民を銃剣で弾圧する強権政治が長続きするはずはないのだ。現地の友人から連絡が殺到した。誰もが「桜子、元気か。国立管弦楽団でまた集まろう。幻になったあのコンサートをもう一度」と書いていた。

コンサートは、新政府の大統領が就任する日、その船出を祝うべく夜明けに開催されるという。

桜子は医師の忠告を無視してチェロとともに機上の人となった。忘れもしない。クーデターのあの日、国立管弦楽団定期公演は軍靴に踏みにじられ、楽団は閉鎖された。桜子は現地に残りたかったが、無念の思いで日本へ帰った。

驚くほどの数の市民が街頭に繰り出し「クーデター反対」「民主主義を守れ」とプラカードを掲げてデモ行進をしたのは当然の成り行きだった。

イラスト・井上文香

危機感を抱いた軍事政権はその隊列に容赦なく銃を向けた。楽団員のある者は不満を抱きながら沈黙を守り、また、ある者は街頭で戦い死んでいった。

殺された一人がウィン。指揮者でありバイオリン奏者だったが、桜子を強引に日本へ帰国させたのは彼だった。「民主化されたらこの国に戻って来て。その時は結婚しよう」。そう言って、抱きしめてくれた。あのウィンはもういない。

桜子は小さいころからピアノ、バイオリンが得意だったが、音楽大学で壁にぶつかった。音楽をやる意味が分からなくなったのだ。

アジアの旅に出た。先々で週末やクリスマスにワイン片手にアンサンブルを聞いたりした。楽しかった。特にチェロが奏でるやさしく深みのある音色に癒された。

そんな時、出合ったのが、この国の管弦楽団だった。団員はアルバイトで生計を立てており、全体練習に集まれるのは週一回、日曜の夕方だけだった。みんな平気で遅刻するし、演奏中に携帯電話が鳴り出す始末。でも、全員が本当に音楽を楽しんでいた。桜子は毎回、顔を出しチェロに挑戦した。

 長旅を終えて東京へ戻ってからも楽団をやめなかった。仕事を終えた金曜の夜、成田を飛び立ち楽団へ直行、月曜の朝、とんぼ返りという強行軍だった。楽器を日本から運ぶのは大変ということで、中国製のチェロを現地で購入した。それを一緒に探し回ってくれたのがウィンだった。

年末恒例のコンサートに参加し、三年がたった時、起きたのが軍事クーデターだった。仲間からは時々、連絡が来た。

「楽器を銃に持ち替えてジャングルの反政府勢力基地で戦っている。若者たちが全国から集まって来ているんだ。軍事訓練はつらいが、必ず軍政を倒す」と知らせてくれたのは、ウィンの親友だったキンだ。バイオリン弾きのピョーのように軍に拘束されたままの者もいるが、周辺国に潜んで映画やドキュメンタリーで軍政の不当さを世界に発信する団員もいた。

食べるものにも窮する暮らしだが、彼らが一様に訴えていたのが、その後の楽団の苦境だった。

軍事政権はクーデターから間もなく楽団の閉鎖を解除し、活動を再開させた。楽団員は半減したが軍事政権の行事の脇役として楽団は不可欠の存在だったようだ。

楽団のメンバーは生きるために妥協を余儀なくされた人たちが中心だった。リーダーは指揮者を務めるソーという男だ。ウィンのかつての友人だ。

民主派の何人かがソーを問い詰めた。「なぜ軍事政権に協力するのか」と。ソーは「私はこの国の音楽と楽団員の生活をなんとか守りたいのだ」と言葉少なに語るだけだったという。

なあに、自分がかわいいだけさという批判のコメント付きで、その情報が寄せられたが、桜子は、温厚で団員の信頼が厚かったソーの憂いに満ちた横顔を思い出し辛かった。 機内で桜子は楽譜を取り出した。メインの曲となるベートーベンの「第九」のほかにもうひとつ用意してきた。「両親の愛情は海よりも深く尊い」と歌いあげる、この国の歌曲である。

空港には楽団を代表してソーが出迎えてくれた。ソーは車を運転しながらポツリ、ポツリと語り出した。

「今朝、ウィンの墓にお参りし、君が戻って来ることを報告しておいたよ、桜子。軍政時代はつらかった。楽団を続けるつもりはなかったが、警官から、協力しないと家族の安全は保証できないと脅迫されたんだ。放っておいたら、しばらくして妻が誘拐され、1週間後に傷だらけで帰ってきた。三日後、川に身を投げた」

「その話、他の団員は知っているの?」

「いや、とても話せない。娘がふたりいるしね」

夜明けのコンサートの演奏会場。外はまだ暗い。もうすぐ演奏会が始まるというのに、いくつかのパートの席が空いていた。ソーを嫌って来ない者がいるのだろうか、桜子がそう思い始めた時、ステージの端からピョーが滑り込んできた。

「刑務所では髭ぼうぼうで。ちょっと床屋に寄って来たんだ」

「ビョー、君は昔から遅刻の常習者だったな」。ソーがにこやかにウインクした。

ばらばらと慌てて何人かが遅れて入場し、あと、空席は一つになった。コツコツと乾いた音を響かせて精悍な顔をしたキンが入ってきた。誰もが息を飲んだ。義足で松葉杖をついていたからだ。

キンはソーに近づくと右手を差し出した。 「このコンサートを迎えるまでに俺たちは多くの犠牲を払った。お前の失ったものに比べれば片方の足くらい何でもない」

ソーは目に涙をため、ゆっくりうなずいて握手すると指揮棒を取り上げた。 歓喜の歌のあと、「両親の愛情は海よりも深く尊い」の演奏が始まった。桜子は先に亡くした母を思った。もうすぐ自分も母のもとへ行くのだ、そこにウィンもいるはずだ。太陽が山の端から顔を出した。光が満ち始めた。サインワインの美しい調べが心にしみる。 (了)

hiro-alt

希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

執筆記事一覧
キーワード:

お気に入り登録するにはログインが必要です

ログインすると「マイページ」機能がご利用できます。気になった記事を「お気に入り」登録できます。