楠木正成は、赤坂城、千早城の戦いでは、鎌倉幕府方の大軍を引き付けて籠城し、多くの奇策も交えて寄せ手を翻弄するとともに、籠城戦自体により全国に幕府崩壊の流れをつくった。卓越した戦術家であり戦略家だ。個人の叡智に加え、通商のネットワークを通じての幅広い情報網と、事業家ならではの、先見性、合理的な判断力を兼ね備えた指導者だったのだろう。
しかし湊川では1千に満たぬ寡兵で主力の新田義貞の軍勢から孤立したまま、数万の足利方に戦略的にはあまり意味がなかったともされる戦いを挑み、弟正季とともに自害した。
少なくも10倍以上の敵勢に対し、朝から夕方まで戦い、包み込まれ討ち取られるのではなく、残った主従、鎧を脱いでともに自害したと伝わる。ということは、正面対決を避けながら粘り強く遊撃戦を戦ったのだろう。軍事的には一隊のまとまりを保ちながら戦場を離脱、撤退する機会は充分あったのではないかとも推測される。しかし、彼は湊川を離れなかった。

正成は、後醍醐天皇の信任厚い4人の功臣「三木一草」の一人として、「朝恩に誇った」といわれる。しかし、多くの公卿はもとより、後醍醐天皇方の軍を率いてともに出陣した新田義貞からも蔑視されていたと伝わる。
主力である新田軍と離れて湊川に布陣した楠木軍。彼らは名将正成のもと、河内や京で転戦した歴戦の精鋭である。しかし、代々の武門の人々から見れば、通商の民の頭目とその配下の部隊でもあった。
八幡太郎義家の子孫であることを誇りとする新田義貞にとって、自ら率いる「正規軍」の員数外の捨て駒として前線の外においた、民兵部隊程度の認識だったのではないか。あるいは、正成は、後醍醐天皇に対して、義貞ではなく人望のある足利尊氏を重用するよう進言したという。義貞としては、正成は尊氏方につくかもしれない、との想定の中で、このような配置としたのだろうか。
楠木正成は、建武の新政期、河内、和泉守護に任じられたと言われるが、父の名も定かには伝わらず、一所懸命に守るべき先祖伝来の領地があったという確かな証拠はない。