「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(54)
ブルブルと、マナーモードの携帯が着信を知らせた。表示を見るとケイだった。そのころ夜になると決まったように電話をしてきていた。
「東京におって新橋で飲んでるんやけど、来ひん?」
学生時代の友人や画家仲間と一緒に飲むことが多く、大抵はにぎやかな声が背後に混じっていたが、その日は違った。珍しく固い声で意外な事を告げた。わたしね、今度、結婚することにしたの。相手?ウ、フ、フ。
思いがけず、その結婚相手に会うことになったのは、それから数日後のことである。元来が破天荒な気質のうえ、2度の離婚でもう結婚にはこりごりと話していたケイだから、3度目の結婚とは正直意外だった。ところが、その相手が僕に会いたがっていると聞いてもっと驚いた。
「そうなんよ。お前、好きな男がいるやろう、その男に会いたいって言わはるの」
ケイと私が深い付き合いなのは確かだが、いまさら別れろ切れろという熱い関係でもない。相手の奇妙な誘いを断っても良かったのだが、この一風変わった女の3人目の夫になろうという奇特な男はいったいどんなヤツなのか。抑えがたい好奇心がむくむくと頭をもたげてきた。よし、会おう。
小料理屋の入口でケイが待っていた。和服姿ですましている。こうして見るとほっそりした古風な顔立ちで匂うような美しさである。迷いのない美だ、そう冗談めかして笑ってみたが、やめて、あんさん、自分の立場わかってはるの、と手厳しい。
「自分の立場、なあ」
「そないよ、あんさん、恋人を盗られた間抜けな男どすねんよ」
「えっ、そういうことか」
「そないよ。ほして、相手さん、金融機関の人やから」
仲居が襖を開けた時、思わず息を飲んだ。唐突に男の禿頭が目に入ったからだ。仕立てのいい紺のスーツに身を包んでいる。
「頭取はん、こちらがウチの好きな貧乏作家どす」
地方銀行の頭取をしているというその男はやさしい目をした小柄な紳士で、畳の上で居住まいを正すと深々と頭を下げた。
「これはこれは、初めまして。いい歳をして、こういうことになりました。どうかよろしくお願いします」
ケイは横でいたずらっぽく片方の目をつぶる。なんと応えてよいかわからず、おめでとうございますと凡庸な追従を言ってしまった。
