ダイバーシティ&インクルージョンの重要性が語られるようになって久しいが、最近はそこに「エクイティ」という概念をくわえ「ダイバーシティ、エクイティ&インクルージョン」と呼ばれることもふえてきている。エクイティとは、公正性と訳されることが多いが、それがなぜいまの社会にとって重要になってきているのかを本稿では考えていく。(伊藤 恵・サステナビリティ・プランナー)

■エクイティの概念とは
企業や行政などを中心に近年盛んにおこなわれている、多様性を尊重するさまざまな取り組みのことをダイバーシティ&インクルージョンと表現してきた。ダイバーシティとは、組織の中で、性別、民族、宗教、国籍、年齢などの違いを認識し、視点を尊重することで、多様な力を発揮することを目指す考え方。
一方、インクルージョンとは、直訳すると包括・包含という意味で帰属意識と解釈されている。あるコミュニティ内に存在する多様な人々が個性を認めあい、参画する機会を持ち一体感のある状態という定義だ。
それに対して、エクイティとは、さまざまな情報、機会へのアクセスを、公平に保証していくべきという考え方だ。すべての人が同じ場所からスタートするわけではない。はじめから社会には不平等なスタートラインが存在する前提に立っていることが特徴だ。
この概念を象徴的に表現する1枚のイラストがある。「Equality(平等)」と書かれた左のイラストには、柵越しに野球を観戦する3人の人物。足元にはそれぞれ踏み台の箱が1個ずつ置かれている。
ある人物は、箱があることで柵の上から観戦することができるようになったが、もう一人の人物は背が低く、箱が1つだけではまだ柵のせいで試合を観ることができない。一方で背が高く、もともと箱がなくても観戦できていた人物は、さらに高いところから野球を観戦している。
対して右側には「Equity=公正」と書かれていて、背が高い人物に与えられていた箱が背の低い人物に与えられており、3人とも観戦ができているイラストになっている。
すべての人に同じ権利や保証を「平等」に与えるのではなく、国籍、性別、家庭環境などさまざまな異なるバッググランドを抱え、違うスタートラインにたっている前提にたち、それぞれの人に最適なサポートは何かを考え「公正」にあたえる。
この視点が、近年重要視されるようになり、従来の「ダイバーシティ&インクルージョン」にエクイティをくわえる動きが加速してきているのだ。
■平等なはずの実力主義がうんだ社会的分断
必死で勉強に励み、有名大学から大手企業に就職して高収入を得る。自分の努力と実力さえあれば、成功を勝ち取れる平等な社会。学力などの能力による実力主義は、これまでの新自由主義の考えの根底にある平等なシステムと思われてきたが、はたして本当にそうなのか。
この大前提に疑問符を投げかけているのが、マイケル・サンデル氏の著書「実力も運のうち 能力主義は正義か?」だ。本書では、ハーバード大学の学生の三分の二は、所得規模で上位五分の一にあたる家庭の出身であることを挙げ、「努力すれば報われる」以前に、家庭環境や社会経済状況により、そもそも努力できる環境が整えられているか否かのスタートラインに違いがあること。
そして、「努力すれば報われる」成功を得た人々は、しばしばその前提を忘れ、この成功は自分の努力と実力によるもので、成功できない人々は、努力を怠り、実力が足りないだけに過ぎない。ゆえにいま得ているものは、当然自分が享受して然るべきものなのだと考えてしまい、これがいまの格差の拡大や社会的分断につながっていると指摘している。
トランプ政権時のポピュリズムの台頭やBLM運動など、社会構造的格差から生まれたひずみはさまざまな問題として顕在化してきている。そしてコロナ禍で、以前から存在していた格差はさらに広がり、露呈していった。社会の分断から噴出し続けるさまざまな問題からもう目をそらすことができない状態にまできている。
それが昨今エクイティという概念が叫ばれるようになった理由である。一方で、コロナ禍で私たちは学んだこともある。社会的地位も収入も決して高くはないとされてきた職種の労働者たちにいかに依存していたか気づいたことだ。彼らを「エッセンシャルワーカー」と呼ぶようになったのも、このコロナ禍においてである。
多様な人々が抱える、さまざまな前提に対する想像力。その多様な人々で支えあい、社会は成立しているという気づき。差別をなくし機会を平等に提供するだけでは解決できない問題にどう向き合っていけばいいのか。エクイティは、解決の重要なカギになってくるだろう。