連載:企業と人権、その先へ(7)
「ダイバーシティ&インクルージョン」を聞いて何を想像するだろうか。女性活躍?障がい者雇用?性的マイノリティ?この言葉自体を見聞きする機会は格段に増えたものの、その本来の趣旨は必ずしも共有されているとは言えない。多様性を目指すダイバーシティ、そしてその多様性を包摂するインクルージョン、その根底には、性自認・性的指向、国籍、人種、宗教、学歴、障がいの有無などによって差別を受けないという確固たる人権がある。(弁護士・佐藤 暁子)

9月24日、国土交通省は、無人駅で障がい者がスムーズに乗降できるためのバリアフリー対策素案を公表した。この素案では、車椅子利用者の乗降を手助けする係員を事前に配置できない場合には、運転士や車掌が列車から降りて介助するといった内容が含まれ、年度内に具体的な指針が定められる予定である。
数ヶ月前には、無人駅の利用を求めたが対応する駅員がいないことを理由に利用を断られたことを契機として、車椅子利用当事者が、合理的配慮が提供されていないと問題提起をした際には賛否含め大きな議論が起きた。
否定的な意見の多くは、電車が使えないのであれば、タクシーやバスを使えばいい、ヘルパーに車椅子を運ばせればいい、(電動車椅子よりも)軽い手動車椅子で旅行をすればいい、といったものであった。
日本は障がい者の権利について定める国連の障害者権利条約を2014年に批准し、これを実施するために障害者差別解消法も施行されており、今年5月の改正によって「合理的配慮」は国のみならず、民間事業者に対しても義務付けられた。
「合理的配慮」とは、原文では”Reasonable Accommodation”と言い、日本語の「配慮」がもつ語感とその意味合いは、だいぶ異なる(ちなみに、常々、「配慮」という言葉が与える効果に危惧している)。
障害者権利条約第2条は、「障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」と定義する。
今回の件を考えてみると、これは、当事者の移動の自由、地域社会で暮らす権利、そしてさらに場合によっては、働く権利や政治に参加する権利といった当事者の様々な基本的人権に影響を及ぼす。
一方で、これを解消するために必要な施策が「均衡を失した又は過度の負担を課さない」ものであることは、今回の国交省の素案からも明らかである。
ともすれば、障がい者の権利実現に対して必要な施策は「思いやり」「親切」という実態の伴わないふわふわとした言葉に置き換えられてしまう。「心のバリアフリー」という用語もその一つである。
何が人を「障がい者」という状況に置かせるのかというと、それは心身の状態ではなく、社会に存在する障壁である。つまり、社会にこそ人を「障がい者」という立場に置かせる原因があり、その社会とは、ここでは「健常者」であるマジョリティ(多数派)である。
このような考え方は、障がいの「社会モデル」といい、障がいとは治療の対象であるとする「医学モデル」や、施しの対象であるという「チャリティー(慈善)モデル」と異なるものであり、障害者権利条約の基礎となっている。
障がいの社会モデルの考え方は、D&I施策自体に当てはまるのではないだろうか。マイノリティーを「受け入れてあげる」「なぜこちらが我慢をしなくてはいけないのか」、そんな意識がマジョリティー側にないだろうか。
D&Iが本来目指しているものは、一人ひとりの基本的な権利の実現であって、その達成を阻むのは、マジョリティーによる差別的な取り扱いに他ならない。マジョリティーがまるで空気のように感じている当然の状態を享受できない人々がこの社会にはまだまだ多くいる。まずは、その人たちの声を聞くこと、マジョリティーである自分が構造的な差別に加担している自覚を持つことから始めよう。